Vitale Barberis Canonico

VBC、レターヘッドに見る歴史 – 後編

さて、レターヘッドの分析からこの物語の主人公を見つめてみましょう。目を凝らせば、右端、つまり管理塔や煙突とは反対の側に、鮮明ではありませんがのこぎり屋根の建物が見えます。(原版では鮮明ですが、印刷したものは不鮮明になります。)この不鮮明な『存在』は、実は隣接してグリェルモとルイジ・バルべリス・カノニコの会社があることが分かる点で重要です。ですからこのリトグラフは家系図を紐解くレンズで見ることが必要になってきます。

グリェルモとルイジはジュゼッペ・バルべリス・カノニコの息子で、ジュゼッペは1912年に息子たちへの財産分与をしようと考えました。
トリヴェーロの成功した企業人としての人生を終えた彼は、アルフレードとジョヴァンニに、このレターヘッドでは『視界外の』場所にあった工場を与えました。
この工場は今は存在しませんが、プラモリーズィオ地区を過ぎた県道のカーブを過ぎた辺りにありました。これは1934年版『毛織物年鑑』に掲載された地図上にその工場をみることができます。

プラモリズィオ地区にあったアルフレードとジョヴァンニ兄弟の工場を示した1934年版『毛織物年鑑』の地図画像

1934年版『毛織物年鑑』の地図から

一方、グリェルモとルイジは、1800年代の工場と1908年に拡張された最初の部分、つまりレターヘッドに描かれた部分が与えられました。最後にオレステとヴィターレには、最も新しく建設された部分が与えられました。それは別の兄弟たちに与えられたのこぎり屋根の社屋の奥にあるものでした。これらの移譲は1921年に始まり、1931年までに行われました。それらの手続きが完了した時点でグリェルモとルイジは、別離すると決め、共有財産を解きましたが、そればかりではありませんでした。グリェルモは、結婚してベルガモに移り住み、ルイジはジョヴァンニと一緒に会社を興すと、より下方の谷で紡績業を始めました。それが『マニファットゥーラ・ディ・ポンツォーネ』です。(これは現在も操業しています。)そのため空きのできたスペースを今度は隣の工場を所有していたオレステとヴィターレが購入しました。
1934年版『毛織物年鑑』はこれらの状況を確認する上でも役立ちます。

1934年版『毛織物年鑑』んも地図の写真

1934年版『毛織物年鑑』の地図から

ポンツォーンネ渓流の端にあった工場を示す1934年版『毛織物年鑑』の地図の写真

1934年版『毛織物年鑑』の地図から

ですから方解石に刻まれた社屋は壁に囲まれており、その位置が変わることは決してなかったのです。一方、オレステは1935年から1936年の間に、彼の兄弟ヴィターレに別れを告げ、自らの起業することに決めました。ヴィターレ・バルべリス・カノニコは、これらの移行ステップを踏んで拡大を続けつつ、一家の企業精神を培い(加えて仕上げ加工のスペースも獲得しつつ)さらなる近代化と拡張を行ってきました。
このリトグラフについてはもう一点、伝えるべきことがあります。それは、レターヘッドには社屋の所在地としてノヴァーラ県と示されていることです。
ポンツォーネは当時『ノヴァーラ』の管轄でした。そして1927年にノヴァーラ県からヴェルチェッリ県に併合され、この事実からこのレターヘッドが1921年から1927年に制作されたことが分かるのです。

アーカイブの歴史的テキスタイル
261.814/3
詳細
テキスタイル261.814/3 番の画像
ヴィターレ・バルべリス・カノニコ・コレクションのテキスタイル

サンプル帖や端切れからなどと同様に、たった一つの書類からも歴史の一片を紐解くことができます。ヴィターレ・バルべリス・カノニコ社のアーカイブは、何千、何百万枚もの生地の端切れがある、つまり何千、何百万の歴史を垣間見ることができるのです。

レターヘッドからも、、、

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