このタイトルは、この世の終わりを示唆するものでも、小説まがいな解釈でもありません。私たちは全国の職人関連分野が滅亡に屈しようとしているわけでもないし、ダン・ブラウンの歴史スリラー小説の表紙を目の前にしているわけでもない。「最後の」とは、、、ヴィターレ・バルべリス・カノニコの資料室に収められている大型の見本帖から最後に見つかったものの話です。見本帖アーカイブでは時折こういうことが起こりうるのです。
全てをくまなくチェックしたと思っても、何かしら、誰かしらが、ページの間から飛び出してきて研究者の理論を覆すものです。今回もそうしてアルプスの向こうから得た数々の見本帖の表紙から半ダースあまりを特定したところで、新たにそのカテゴリー番号を増やさねばならない結果となる名前が挙がりました。ダラス-エウマン、デユーラン、アダマール-オッペンハイム、ペジュー、ロワイエ、アンスワーズ、ツォラー、外にもまだいます。そして全員とまでは言わなくともそのほとんどがパリジャン。素晴らしい集団で、ただ、その番号リストが見た目ほど長くならなかったのは、彼らのうちの幾人かは、接点から連想するに、彼らどうしで協力関係にあったり、後継者として奇妙な相互関係が成り立っていたからです。
アルファべット順の最初は、同時に最も古い歴史を持つダラス-エウマンで、2千冊以上ある資料の中で登場したのはたった一度きりです。 見本帖の分野で知られる「クロード・フレール」が活躍していた時代、1865年当時の希少本で、秋冬ものの生地を集めたものです。生地のデザインは幾何学模様で、色鮮やかで、大胆なコーディネートで遊びがある、、、製本所のラベルには、フォッセ-モンマルトル通り15番地(現在のアブキール通り:この地名は間違いなどではありません。あの抒情的なモンマルトル地区ではなく、ルーブル美術館からほど近くにある通りの名です。)という住所と古くから営業しており数々の受賞歴をもつ「商業用総合製紙会社」としての名が記されており、この業者が確かに存在していたことを後世に伝えています。
1889年のパリ博覧会の際、審査員はこの企業の歴史についてこう述べています。
その後も数年にわたり、様々な技術で特許を取得しています。このようなコレクションは、ヴィターレ・バルべリス・カノニコの歴史資料の価値を際立たせる存在となっています。
見本帖 137 「G/Automne / 1865」より
旧フォッセ-モンマルトル通りからさほど遠くないところにジュヌール通りがあります。この通りのほか、さらにユゼ、レオミュールそしてセンティエ通り(パラディ通りのすぐ近く)で構成された一地区に、製紙会社や製本会社、さらには見本帖の製造会社があり、ここから定期購読者に見本帖が発送されていました。それと知られる会社はこの地区に集中して存在していましたが、これは偶然ではなかった。間違いなく、業者組合に加盟する企業が集まって存在していたのでしょう。
この業界の職人たちもまた、他の分野と同様に工房を一地区にかたまって存在させていました。ジュヌール通り30番地(サン・フィアール通りとの角)には、アンリ・ドュランの工房が1800年代の終わりから存在していました。1925年前後には、この工房は販売店もロワイエ家の手に渡りました。
ロワイエ家の人たちは、1866年にはサン・ジェルマン大通りに本拠地を置く会社を設立しており、様々な博覧会に参加して高い評価を得ていました。当初は、学習教材用の素材を専門に製造していましたが、ドュラン氏の工房を引き継いだ頃にはすでに、製紙加工生産で高い評価を得ていました。ヴィターレ・バルべリス・カノニコのアーカイブには名前の判明していないフランスの毛織物会社の1938年から1939年の2年分のすべてのサンプルを収めた見本帖3冊があります。(それらはむしろ日常的なレベルの生地で、時代は違っていても「クロード・フレール」のそれのようにきれいに整理さているという点で貴重なものです)このロワイエ社は1970年代まで営業していました。
見本帖424. 「Hiver / 1938 / Unis 3600 / Fies 49800」より
1900年代の初め、モーリス・マリー・アダマールは、絵に描いたようなマレ地区のアルシーブ通りに工房を構えていました。同業者たちの工房からは少し離れていますが、よく見ると徒歩でたった20分の地点です。一方モーリス・オッペンハイムは、次の世紀に移った頃、アダマールの工房から目の鼻の先にあるグランド・トリュアンドリー通りに工房を開きました。そして1908年にはすでにこの二つの工房が手を結んだとしても驚きではないでしょう。そして、彼らの協力体制がパリの残りの同業者のさらなる歩み寄りを導き、モーリス・アダマールを単独後継者とする「モーリス・オッペンハイム&アダマール共同工場」をレオミュール通り18番地をオープンさせるに至りました。1925年には未だ本社はこの住所にありました。ヴィターレ・バルべリス・カノニコのアーカイブには、彼らのラベルの貼られた見本帖13冊収蔵されています。
やはりジュヌール通りのロワイエの工房から数メートルに、ロワイエの工房設立のすでに数年前にオープンさせていたジャン・ペジューの工房があります。当社のアーカイブには1869年と記された見本帖が一冊残されていますが、秋物ベスト用生地の豊富な生地のコレクションで、サンプルはとても色鮮やかです。製紙製本企業としてのペジューの歴史は、ずっと以前に始まっていました。バルタザール・マッソンやアントワーヌ・メイヤールらと共に、特許庁の担当部署にチャールズ・スティーブンスという人物と「包装その他の用途の新素材とその製造装置」の発明について特許申請がされています。その数年後、同じメンバーで同じくジャン・ペジュー(当時はリヨンで操業していたと推察される)が新たな防水紙を開発したことを示唆しています。
ただ、ペジュー氏は、特許申請では新参者ではなく、その20年前の1840年には彼の発明による「木材および紙の接着、着色、ツヤだし、エンボス加工技術」で特許登録をしています。この時代には彼の工房はやはり同業者の集まる地区のベルフォンド通りにありました。ただ、この時点でのオーナーはジャンではなく、その父親のアレクサンダー・アントワーヌで、父親もまた同じ仕事を営んでいたことになります。そしてリヨンにはぺジューの祖父が営業を1829年まで続け、彼の技術と製品そして製本コレクションを選ばれた顧客に提供していたのでしょう。
ペジュー社製 見本帖138. 「GILETS / R Q / Tissus / Automne / 1869」より
最後に登場するのはアンズワースとツォラー。
ユージン・アンズワースは他に2つの関連会社を有していました。一つは「メゾン・セディーユ」もう一つは「ガミション・フレール・エ・ビッショップ(ダブル『s』で表記)」。本拠地の住所はサン・サブール通り4番地(いうまでもなくレオミュール通りに並行した通りです。)見本帖は5冊で、すべてが例の誉れ高い「クロード・フレール」社により1886年から1904年までに制作されたものです。見本帖には、色鮮やかなチェック柄の生地が整然と収められています。
シャルル・セディーユはクレリー通りにあった彼らの元の工房に加え新たにサン・サブール通りとパラディ通りに店を開きました。1800年代の終わりにはこれらはユージン・アンズワースの手に渡りましたが、外国人であった彼は、どうやってもパリの製本業界に溶け込むむ術を見つけることができませんでした。実際、その数年後、ガミション兄弟とビッショップ氏が現れ、会社は彼らに買い取らると、特にポスターの分野で一定の成功を収めました。
「クロード・フレール」社はまた、ポワソニエ通り11番地((実際にはジュヌール通りの角)に本拠地をもつ「A.ツォラー印刷会社(Zöller または Zoellerとも表記)」の顧客でもありました。1896年から1901年年版の10冊におよぶ見本帖が残っています。オリジナルのラベルのうち最も新しいものは、アルベルト・ツォラーから会社を引き継いぎ、書籍の編集と印刷を手掛ける出版社として長年活動していた「シモネ&フィユ」社の名が記されています。
ツォラー氏は外国人、おそらくはウイーンの出身(ヴィルヘルム・ツォッラーは、製紙販売や、リトグラフはもとより、「クロモス(つまりクロモリとグラフ)」の編集などを行う美術印刷業を営んでいた)で、このことは彼のビジネスの助けにはなりませんでした。ですが、そんなアルベルト・ツォラーは、パリでは成功の可能性が乏しいと感じ、エジプトのカイロに転機を求めます。実際、1987年以降、シェリフ・パシャ通りに同じツォラーという名の店がありました。権威ある「エジプト行政商務指標書」の同年版はこの名が記されており、これが同一人物である可能性がかすかにうかがえます。
ツォラー社製 見本帖 1522. 「G 1 2 3 / Classe 17 / Automne / 1901」- 「Tweeds n° 1」より
以上をみてみると、彼らを「最後の」と表現するのは不遜な行為かもしれません。次回の資料整理の時点までは、、、としても良いかもしれません。ですが、古い文献や資料を扱うことの素晴らしさがそこにはあるのです!一方で一つ確かなことは、ヴィターレ・バルべリス・カノニコのアーカイブには、一見してさほど重要でないように見えるものにも、テキスタイルの分野における唯一無二の歴史とその情報量の厚みを感じさせる、素晴らしいテキスタイルの世界が存在していることだけは確かです。