第一次世界大戦の最中、ビエッラ地域の工業界は大きな犠牲をはらい生産体制を維持しており、当然、ウールメーカー バルべリス・カノニコもその例外ではありませんでした。当時のオーナーで、ヴィターレの父だったジュゼッペ・バルべリス・カノニコは、不退転の決意で王立陸軍が必要とするだけのグレーグリーン色の軍用生地納入者の役目を果たしました。
軍用生地の納入には、人的犠牲は云うまでもなく、ビエッラ地域による一次大戦への最も重要な貢献だったと言えます。ビエッラ地域の毛織物業者に対する軍事物資の納入割当ては、第二次世界大戦時もありましたが、量もその意味合いも種類の全く異なるものでした。1915年から1918年にかけてのこの紛争における全ての戦線で使用される生地を生産すべく、ビエッラの人々(特にビエッラの女性たち)は、後方支援のための特別体制を敷き、休む間も惜しんで織機にむかったのです。
第一次大戦で、ヴィットリオ・エマヌエレ3世はサヴォイブルーと呼ばれたシンボルカラーを背後に押しやり、この色を選んだことから『グレーグリーンの王』となりましたが、シンボルカラーとしてのグレーグリーンをめぐっては、同大戦中の4年間、そして大戦終結からファシズムの到来を含めたいわゆる『赤い2年間』と呼ばれた時期に至るまで、政治、イデオロジー、社会そして文化における論争を繰り広げることとなりました。カトリックの『白』、社会・共産主義の『赤』、そして『グレーグリーン』は、好むと好まざるとに関わらず、自由君主主義の中産階級、軍事主義者、資本主義者らが身に着けることとなり、塹壕に添うように対抗する色の溝は深まるばかりとなり、最終的にファシズムカラーの『黒』がそれらの色の全てを覆いつくすこととなったのです。これらの色の変遷は、当時の新聞に読み取ることが出来ます。1922年『ローマ進軍』から6日目に行われた祝賀会では、この公式祝賀行事に招待された国の関係者はグレーグリーンを着用してたのに対し、街中では黒シャツを着た者たちが新たなイタリアの主であるムッソリーニに賛辞を贈ったのです。
1917年ビエッラ市内シモーネ・ロッセッティ写真館で撮影されたグレーグリーンの軍服を身に着けた山岳歩兵第4歩兵連隊上級伍長の写真
ところで、これ以前の年には何が起こっていたでしょうか?この時代について、もう少し時間をさかのぼってシンボルとしての色の観点から見つめる必要があるでしょう。
ビエッラの人々は、このグレーグリーンという色を第一次大戦の少し前から意識し始めていました。いわゆる『(カムフラージュする)ノンカラー』は、かの有名な『グレー小隊(「モルベーニョ」の山岳歩兵中隊)』が着用することでデビューしましたが、これはイタリア山岳会ミラノ支部の会長ルイジ・ブリオスキの意向による試験的なものでした。1905年の事です。迷彩服を作る事が目的でしたが、成果は称賛に値するものがありました。リビアをめぐる紛争のあった1911年、ビエッラでは、青年や学生による志願兵による中隊(実際の理由は明確ではありません。おそらく有事に備えるため、あるいは軍事国家主義を推進するためだったかもしれません。)が組織されました。
部隊としては『軍服着用は強制しない』としていました。しかし、中隊の目印として、左脇に鷲の羽根と三色の花形帽章の付けたグレーグリーンのベレー帽を被り、さらにはグレーグリーンの布を巻いたゲートルを着用することが義務づけられました。(1911年5月6日付『Gazzetta Biellese』誌より引用)
そう、これがまさにグレーグリーンの登場です。ですからビエッラ地域の毛織物企業は、既にこの色で生地を織っていたことになります。しかし、それはまだ、一般人に知られる色にまではなっていませんでした。
それから一年が過ぎて間もなく『市民の中から招集された第2中隊所属第54歩兵連隊の新兵が当市に到着した。これらの歩兵隊は1892年生まれの者およびそれ以前に兵役についていた者により構成されている。各隊は連隊の補給所で、野戦用のグレーグリーンの新しい軍服と装備を着装した。私たちの町に新たな軍服を支給された部隊が配属されたのはこれが初めて。』とあります。
1916年に現像されたビエッラ市内の『ラニフィーチョ・G・リヴェッティ・エ・フィッリィ』社の自動紡績機。リヴェッティ社は、ビエッレーゼ地域における王立陸軍から『予備工場』として指定されていた工場の一つ。これは、軍事工場は軍事法によって定められていたことを示す。
それ以降、この色は一般市民にとっても目新しい色ではなくなりました。一方で、1918年11月4日の終戦の共に、別の新たな『戦い』が勃発します。繊維業界では王立陸軍からの大量の注文が滞り、1919年はじめの数か月にほとんど途絶えたため、生産活動は一気に減速、業界はこの困難に持ちこたえられなくなります。グレーグリーン色の生地生産を、別の色に移行するのは簡単なことではなく、産業の落ち込み以前に人々が気力を失い、これに打ち勝つことは難しかったのです。社会主義者たちにとってグレーグリーンという色は、『敵』のシンボルカラーにも等しい色になってしまいました。赤と呼ばれた左翼系の人々は、資本主義者と軍国主義者が手を組み、グレーグリーン関連から生みだされた前例のなき富を築いた人たちをプロレタリア労働者階級特有の激しさで、あらゆる角度から攻撃しました。
その抗議内容には真実も含まれていました。が、かなり行き過ぎがあったのも事実です。少なくともビエッラ地域では、さらには毛織物業界では、過剰な利益を不当に得ることが出来たかもしれませんが、他の業種でのようなことはありませんでした。実際には利益が最小限のものであった事実は、左翼の同志たちにとって興味の薄いものでしたが、それでも(妥当なことですが)主義主張に関わる問題でした。グレーグリーンの生地は、罪をなすりつけられたかたちとなりました。1919年6月24日付の『Corriere Biellese』紙のプロパガンダのための論説が掲載されており、そのタイトルも読んで字のごとく『Delenda Militia(軍を壊滅すべし)』(チェーザレ・バッティスティや、それこそベニート・ムッソリーニも含め、社会主義者でありながら、参戦前夜に熱烈な参戦主義者になったものは少なくない。今こそ、一切の条件をもたない平和主義を貫け)グレーグリーンの奴隷ではなく、逞しい胸がはだけたままで麦を刈る自由な農民を目にしたい』と支持するもでした。
グレーグリーンの労働者として資本主義と戦争、この二つの奴隷でいるよりは、肌を日に晒していても自由を手にした方がましということ。一方で、企業家も同じくらい問題を抱えていましたが、それは本質的に別のものでした。
何らかの抵抗をプロパガンダとして形にしようとしたものの、明確な信念も成功も得られずに終わりました。グレーグリーンは、資本主義者の目には博愛の色、闘う英雄の子息である子供たちに同じ色の生地を贈り、衣服作りに用いてもらい慈善の色にしようとしました。『混乱の続いた数年間、戦線や国内予備作業場おける勇敢な兵士、労働者の小さな子供たちは、学校教育関連の慈善団体からの要請を受けた製造業者から、きめ細かな温かい支援を受け、グレーグリーンのあまり布を提供され、子供たちは学校用の半ズボン、洋服全体を慈善団体自体の保護のもとに作りだすことが出来た。』
何もないよりはましですが、よく見れば、それは大した援助にはなりません。実際、最も大きな課題は、民間用への転換でした。1919年1月25日には既に、『La Tribuna Biellese』紙上で『イタリアの毛織物産業を救おう!』という声高な見出しを目にすることが出来ます。
1919年1月25日付『La Tribuna Biellese』紙
グレーグリーンは、より高い利益を生む資源から企業の重荷と姿を変えていました。輸出だけが景気回復への起爆剤でした。不当な利益を得たという非難も、すこし計算してみれば理屈に合わないのは明白です。『1916年1月から、陸軍省は、グレーグリーンの生地で、生産者が4%の純益を得られるべく価格を試算し決定した。だが、政府が原料価格を引き上げたことで、毛織物業者ほとんどは、国に生地を1メートル納入するごとに1リラの損失を被ることになった。実際、1キロあたりグレーグリーンのハギレが6,50リラ、綿に20リラ、ミックスウール当たり34リラ。1メートルの生地に対し19,70リラの請求をするとなると、企業はかなりの損失を出すことは素人の目にも明らかだ。たった一つの慰めは、労働者には仕事が常にあるということ』そんな虫のいい話を、左翼の人々が受け入れるわけがないのですが、彼らの言い分にも小さな真実がみられます。その真実とは、戦線で戦う兵士たちを守ったこのグレーグリーンの生地は、彼らが労働者の立場に戻った時、自由を与えるどころか、失業という冷酷な現実に晒さらすことにもなったこと。グレーグリーンは恵みであり、はく奪者でもあったのです。最初は軍服の色として、次には分断するものとして。
そんなグレーグリーンは、現在でもヴィターレ・バルべリス・カノニコ社の歴史アーカイブの一部に含まれています。ウールメーカー『ラニフィーチョ・ジョヴァンニ・トネッラ・エ・フィッリィ』社の1912年冬物の見本帖に、興味深いサンプルが見ることが出来ます。第一次世界大戦勃発前ではあっても、既に王立陸軍の色として使われていた頃のものです。ですが、その当時はまだ、この一色が間もなくイタリアを示すカラーとなろうとは誰もが知る由もありませんでした。